小城藩属でありながら、本藩お抱え寺の檀徒となった西小路鍋島家

2015年11月5日、臨済宗「医王山三岳寺」(小城市)を参拝。
このお寺は、鎌倉時代に現在と宗派がことなる天台宗「三津寺」として開山される。
江戸時代初期になり、三要 元佶(さんよう げんきつ)※が招かれ、臨済宗の三岳寺(さんがくじ)として再興しました。
※閑室 元佶(かんしつ げんきつ)とも

佐賀鍋島家を救った元佶和尚

関ヶ原の合戦の前、鍋島直茂の子 勝茂は西軍に誘われ加担。
直茂の本意でなかったため、すぐに止められますが、時すでに遅し。

すでに武功をあげた後でした。
その後、関ヶ原の合戦でこそ出陣しないまでも、東軍の徳川方が勝利を収め、鍋島家は存亡の危機に瀕してしまいます。

小城出身かつ直茂の家臣になった経緯があり、さらに、関ヶ原において徳川家康の陣中随行の側近であった元佶(げんきつ)が、鍋島家の赦免に奔走。
隣国柳川立花藩を攻めることを条件に、寛大な恩赦を受けられました。

感謝の印に直茂・勝茂の父子が元佶和尚へ出身地小城にお寺を寄進。
これゆえ臨済宗三岳寺となり、佐賀本藩鍋島家のお抱え寺となっています。

西小路鍋島家、三岳寺檀徒に


小城鍋島家は、本来、分家も含め「祥光山星巌寺(じょうこうざんせいがんじ)」が菩提寺です。
しかし、西小路鍋島家(小城鍋島家分家であり、小城鍋島家 Tenの家主)は、三岳寺の檀徒。
ことの経緯は、江戸時代中期にさかのぼる故事にあります。

享保年間(1720年頃)佐賀本藩の三岳寺領内で、小城藩が狩猟をし、問題となった小城藩では三代藩主元武の弟元敦(後の西小路鍋島家)を三岳寺の檀徒となし和解することとした。(三岳寺内の碑文石より引用)

いくら三支藩の筆頭と言えど、本藩領を犯した罪は大きかったようで、佐賀本藩と小城藩が対立する一大騒動に発展。
流石に小城藩主が星巌寺を離れるわけにはいかず、後に副藩主の家格ともなった西小路鍋島家に白羽の矢が当ったようです。

また、平成4年、星巌寺にあった他の西小路鍋島家代々のお墓を全て三岳寺に改葬。
これには西小路鍋島家のおばあちゃん(現87歳)のご尽力があったそうです。

裏にある池の小島に魅了される


時間帯が良く、木漏れ日がスポットライトのように小島と石像を照らし、特別な空間のように見えました。
紅葉が池を取り囲んでいて、赤く色づいたらとても見ごたえがありそうです。
また見に来たいな。

住職の奥さんにご対応いただき、日頃開けない薬師堂内で鎌倉期の薬師如来像など、貴重な文化財を拝観しました。
ありがとうございました!